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Forest Instructor Association of Japan

「明治伐木運材図絵」を通して明治の山仕事を読む9

執筆:羽鳥孝明氏(東京5-0145)

「明治伐木運材図絵」を通して


図1 筏の図
 
図2 詞書き
筏の組める所を河岸などと云う。さながしの木も牛の背の材もここに集うのである。
筏は藤蔓にてつなぎ合せ、櫓は左右の梶だけにて進むのは水勢まかせである。

  
 筏については、烏川上流の倉渕付近ではほとんど話が聞けなかったので、前回の「多摩川の筏流し」を参考にさせてもらいます。
 たき火にあたっている人がいます。筏を組む人でしょうか、筏に乗る人でしょうか。牛で運んできた人でしょうか。寒い冬の作業なのでしょうか。前回のさながしの時に、冬の川に入るときは寒くないかと聞きました。「大丈夫よ。一度川に入ってぬらして、体を冷やす。そしてから、たき火にあたって、(たき火は半人前の者が先に来て焚いておく)熱いくらいにしてから入ると大丈夫なもんだよ。」と。
 ある程度川幅と水量があるところでは、筏に組み立てて材を運びます。「さながしの木も牛の背の材も」とあります。前回の画では「さながし」の木は丸太でした。牛の背の材は製材されています。さながしでは材がだいぶ痛むので、牛の背だったのでしょう。牛の入らない場所ではどうだったのでしょうか。しかたなく材にしたあとに流したのか、解りませんが。丸太はともかく、角材は杣が削ったものでないと筏に組むのにはまずいそうです。木挽きの鋸で挽いたものでは、砂や砂利が材の間に入ってしまいます。ちなみに、杣の終焉の理由は製材所もありますが、筏と共に終わったのかもしれません。

 「藤蔓にてつなぎ合せ」と、古くは藤蔓で結んでいました。角材と丸太では形が違います。足場丸太のような長いようなものは、又それなりの組方がありました。といっても、地域ごとに筏の形が微妙に違うのでよく解りません。参考にした本などの話も明治以降の筏の組み方なので、江戸時代のものはというと解りません。嘉永年間にまとめられた「飛騨資料 運材図会」の画などに描かれている材の大きさからすると、多摩川筋の筏はとても小さく見えます。地域ごと時代でだいぶ違うのではないかと、それは伐り出す材の大きさによるのではないかと思われます。
 ここで組まれている画と似ているのが、梶は付いていませんが、下の写真です。2003年西川林業地で再現されたものです。埼玉県の飯能市郷土館に実物大の模型があります。

 
 さて、このように組んだものをいくつか繋げて一枚といいます。いくつ繋いで一枚にするかは川の水量と幅で決まります。この画では三つか四つ繋いで一枚にしています。もっともっと水量の多いところ迄下がっていくと、この筏を又繋ぐということもします。いったいどのくらいの長さになるかはいろいろな地域によって違ってきます。
 「櫓は左右の梶だけにて進むのは水勢まかせです」今と違って動力を使わない、エコなものです。昔は動力がないので、ほとんどがエコですが。川の流れに乗るために櫓を梶の代わりに、前と後ろにつけています。長い筏を周りの岩などにぶつけないように、うまく流れに乗って行かなければならないので、熟練の技が必要とされます。この画では描かれていませんが、組まれた筏は河岸に積み上げられて、一気に川に入れます。筏の行列になって、筏は後から後から流れることになります。前の筏が下手なことをすると、後ろの筏にぶつかることもあります。

 

付録

 西多摩地方では、筏師という言葉は元締を指します。山の木を買って材を出す人です。筏を組めない上流でも、下流の筏を利用する人たちも筏師です。筏に乗る人を筏乗りとか筏夫とかいいます。筏師が自ら筏に乗る事もあるので、その時は筏師=筏乗りとなります。筏師に使われて筏に乗っているだけの人は筏乗りです。この区別が間違えて使われている事がありますので、注意が必要な言葉です。但、筏師の仕事内容が地域地域で違っていますので、確認は必要です。飛騨では筏問屋に雇われた筏乗人(のりて)という言い方があります。(注1)
 西多摩では、筏の上にはいろいろなものを乗せます。上荷といいます。水に濡れて困らないものです。筏師が運送賃を貰って筏に載せるのですが、筏乗りが内緒で載せて自分の小遣い稼ぎをすることもよくあるようです。筏乗りの手当がよかったといわれているのも、そんなことも加味されるかもしれません。当然筏乗りの賃金はよかったのです。それだけの技術が必要でした。山仕事が出来ても筏乗りにはなれない人が多くいました。筏乗りは逆に筏に乗らない時は山仕事をしています。こんなことがありました。筏乗りが筏宿に筏を渡した後に、お決まりの遊びに行きます。遊びすぎてお金が足りなくなると、元締に手紙を書きます。元締は筏乗りが帰ってこないと次の筏が出せませんので、お金を送ってきたそうです。
 一見悠長に見える筏流しは、下流の村々との争いが絶えませんでした。田んぼや飲料水の確保の邪魔をしないようにと通行料を払うことで通して貰うことが多くあります。そのような通行料とは別に流れをせき止めたり、杭を打ったりと筏の流れを邪魔する村々が多く、江戸時代はそんな係争が多くあります。原因は、ちょっとした小遣い稼ぎにやる場合と村同士のいざこざが原因だったりと色々ですが。
 西多摩地域や西川地域では、筏は大正時代に入るとだんだんと見かけなくなります。それは鉄道に取って代わられたからだといわれています。秋田県の能代地方などでは戦後にも筏で出していたという話もありますから、全国一律になくなったのではないようです。
 
(注1) 飛騨資料「運材図会」


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