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Forest Instructor Association of Japan

「明治伐木運材図絵」を通して明治の山仕事を読む10(最終回)

執筆:羽鳥孝明氏(東京5-0145)

「明治伐木運材図絵」を通して


図1 大工の図
 
図2 詞書き
旧藩時代には上野(こうづけ)より江戸或は水府までも筏は行ったのであるが、明治には汽車電車のきく町で陸上げされたのである。
山師の大まさかりの跡を大工はちょうなにてなめらかにして、そして鉋をかけるのである。
普請する農家の庭には苗木が青々と育っている。


  「旧藩時代」とは江戸時代です。「上野」は今の群馬県あたりをいいました。「江戸」は江戸の町です。隅田川などの材木問屋のあるところです。「水府」は水戸のことです。利根川を下って筏は進みました。利根川ですから坂東太郎です。高崎にある河岸から筏にして、江戸や水戸へ運びました。当然丸太などの材だけでなく、多くの商荷(商品)なども舟で運ばれます。その筏も「明治には汽車電車」に取って代わられました。
 家を造る材は、杣の「大まさかり」で削った物を「ちょうなにてなめらかにして」「そして鉋をかける」とあります。「大まさかり」では荒い削りなので、「ちょうな」で蛤の殻のようなきれいな跡ができるように削っていきます。画の真ん中に、下から二番目の人がそれを使っています。その後に鉋で削ると平らになります。「大まさかり」から鉋で削る間には、「ちょうな」という作業が必要とされます。直接鉋で削るには粗削りすぎるということです。多くに家では「ちょうな」で削るところで、終わってしまい、「鉋」でけずらないことがあります。私が見た大正時代に建てた家は、台所などの他所の人が見る事のないところは「ちょうな」削りで止めて、玄関や客間には「鉋」で仕上げの削りをする所と分けてありました。
 さて作業は外に、左端で鑿でホゾ穴を空けている作業、鋸で材を切っている人がいます。この当時は釘などを使っていたのでしょうか?江戸時代は釘は高い物だったらしく、仕口継手などであまり金物は使わなかったようです。
 「普請する農家の庭には苗木」が茂っている。このような立派な普請をするような家では、苗木を育成して、販売しているところもあったということでしょうか。それとも、農家一軒ごとに苗を育てていたのでしょうか。わかりませんが、伐った所には植えるという習慣はあったようです。
 子供が、子守の女の子が赤ん坊をおんぶして小さな子の手をひいています。子供も立派な働き手であった時代でした。子供にとっては家を造っているというのは面白いイベントだったのでしょう。一日一日と家が建ち上がっていく様子を見るのが楽しい気分にさせてくれるのでしょう。そんなのどかな日和を感じます。
 家の構造がだいたいできあがったのでしょか。今とは結構違いますね。柱と柱を繋いでいるのが「貫(ぬき)」です。今の家では使いませんね。今の家では、地震に強い家というので、「筋交(すじかい)」というのがよく言われますが、この当時はあまり使われていません。「貫」は木挽の挽く材です。当時としてはよく使われた材でした。地震にはどうだったのでしょうか。「筋交」のような強度はありませんが、揺れをそのまま受け止めて一緒に揺れる構造でした。
 柱の下に石が置いてあるようです。そして、縁の下が作られるようです。現在では縁の下のある家は見当たりませんが、これが当たり前の家でした。時代劇などで、よく縁の下から、上で悪人が話をしているのを聞いているシーンがあります。風が吹き抜けるので、湿気などは家の中には残りません。下から風が上がってくるのです。夏の暑いときにさわやかなのはそのせいです。当然、冬は寒いですが。冷房設備も暖房設備もあまりない時代、夏の湿気が難敵だったようです。「徒然草」に、家を造るなら「夏をむねとす」というのがありました。昔は夏の蒸し暑さは、それをどう乗り切るかということに家づくりは重きを置いていました。エアコンによる冷房がない時代でした。現在のように、寒くない家・魔法瓶のような家・床下暖房などとは逆の発想の家づくりでした。サンルーム・明るい家などとも違いました。「日本家屋の家づくり」とか「伝統工法」という言葉がありますが、居住空間としての家はまったくコンセプトが違っていますので、同じ家ではありません。そこに使われる材なども同じようであっても、同じ使われ方ではなくなっていると思われます。木の家を造るといっても、現在の生活習慣がまったく違ってきているので、昔はこうだったからというのは、今には当てはまらない事が多いのではないでしょうか。昔を考える時には単純に今を基準に考えないように気をつけたいと思います。

最後に


 この連載も最後になりました。今まで見てきたように、機械を使わない技のすごさを見せつけられた気がしませんか。今の私たちと、彼等との違いは何なのでしょうか。同じ人間なら、同じ事が出来るはずなのですが。
 一つには肉体が違います。機械化された物を利用することによって、肉体が機械のリズムになっている事でしょうか。歩くことがほとんど少なくなった。自動車も汽車もないのですから、歩く事からすべてが始まります。そこで培われてきた肉体が同じ訳がありません。いかにどうやったらよいかと体一つの中で工夫をしてきた、智恵がその肉体に宿っているのではないでしょうか。現在は機械化されたものを如何に使うかという所になっているような気がします。もしかしたら、機械を使っているつもりで、機械に使われていることはないでしょうか?
 又一つ、時間にカンする感性、認知能力の違いがあるのではないでしょうか。西多摩の青梅の御嶽山で初めて電灯が灯ったときの、山の上で作業していた人たちの話です。「電気が今日あるって話だけどよ。」「電気が早いったってよ、どんだけ早いか解ったもんじゃないよ。」「じゃぁ一つ賭けようか。どれだけで麓からここまで上がってくるか!」「歩いてここまで一時間はかかるから、早くても十五分だろう。」「二十分」「三十分」「十分」と分かれました。麓を見る人と、山の上の明かりを見る人とに分けて、灯りがついたら「点いた」というようにしました。今では、そのような事はばからしい賭けですよね。ほとんど同時に「点いた」という声が上がり、みんなびっくりしたということでした。現在の私たちは普通に接している時間に対して、昔の人とは同じ時間を共有していなかったといえます。肉体が持っている時間が、その時もろくも崩れた瞬間でした。
 肉体論は横に置いて、昔の技の事をもう一度考えてみる事は意味がない訳ではないと思います。鋸がチェーンソーに代わりました。技術のない人でも機械の力で木を倒すことが出来るようになりました。鋸での伐倒のやり方に試行錯誤した経験があれば、チェーンソーによる作業はもっと違う物になるのではないでしょうか。もっと合理的な、自然に優しく、機械にも優しい使い方が出来るに違いありません。一番合理的に伐る方法が出来るのですから。そのように機械と接する事が出来るならば、よりよい機械の使い方を出来るのではないでしょうか。機械に使われるのではなく、機械を使う形で復興できる方法がもしかしたら、肉体の智恵、そこにあるのかもしれません。
 機械に使われるのではなく、機械を使う事が出来るような気がしてなりません。ブルーノ・タウトが「桂離宮は目で哲学する」といったそうですが、私はその言葉を「山の親父は肉体の智恵で哲学する」とでも置き換えて、この文章を終えたいと思います。長い間ありがとうございました。

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