本文へスキップ

Forest Instructor Association of Japan

東京・西多摩式運材図絵 1

 〜最後の木屋師・久保田喜助の技〜

執筆:羽鳥孝明氏(東京5-0145)

木屋師とは

 東京都に林業がある、現に存在しているというと「へぇ…」と驚く人がいると思います。
 今では考えられないですが、「四谷丸太」という言葉もあり、新宿の四谷の木戸を通って丸太が江戸の町に入っていました。杉並区豊島区など屋敷森の大きな様な感じで作られていました。明治大正時代に終わり、その姿は消しました。しかし、武蔵国の玉川上流には、青梅林業といわれる林業地が江戸時代から現在までも続いています。
 その青梅林業地の中に入る「檜原村」では木屋師という伐木運材に携わる人たちがいました。木屋師という言葉は檜原村特有の言葉らしく、明治以降の言葉と言われています。
 木屋師とは伐木作業(リン)を行い、修羅・ソリ(木馬)・鉄砲(鉄砲堰)・川流しなどを行い出材をした作業集団の中の人をいいます。リン・鉄砲などの構築物を造り、川流しで丸太に乗る事が出来る人をいいます。手伝いのように周辺にいた人たちはそのように呼ばれません。
 その木屋師という言葉は明治から始まりましたが、戦後数年で言われなくなりました。それは、運材を行う「道」である「川」での作業がなくなったからです。その木屋師といわれた最後の人が「久保田喜助」です。久保田さんから聞いた話をもとに、木屋師とはどのような作業をした人であったかを、ここで紹介をしたいと思います。
 久保田さんは二十歳になり徴兵で召集されましたが、まだ戦地へ向かう前に昭和20年に終戦を向かえました。小学校の高学年になったころには、学校へ行かないで親の手伝いで山に入っていました。小学校の4年生ごろには、親父がいない時に一人でリンを組んでいた事もありました。小学校を満足に出ないで、小僧として見習いに山仕事に関わることになりました。そこでは、川での丸太乗りが好きで、いつまでも乗っているのでよく怒られました。戦争という時代のため、年の上の人は召集という形で、仕事から離れなければなりませんでした。必然的に10代の者がその仕事を任される形になりました。若者が若者を指導するという形で、その頃の山仕事は行われました。山仕事の大好きだった久保田さんは年齢も上の方であった事により、指導をする位置にならざるを得ませんでした。そのことにより、自分では知らず知らずに、多くの木屋師としての技を身につけざるを得なかったようです。
 戦後、一度だけ鉄砲をやりました。それが最後で、木屋師という言葉は忘れ去られたようです。

付録


雪が降り積もり、氷になって滑りやすくなっている上で作業をする久保田喜助氏

続き

第2回を読む

東京・西多摩式運材図絵の続きはこちらから

イベント
活動報告
生物多様性と子どもの森
グリーンウェイブ参加登録
会員が書いた本
森林インストラクター地域会
Newsを考察
安全管理
サイトマップ

一般社団法人 日本森林インストラクター協会

〒112-0004
東京都文京区後楽1-7-12
林友ビル6階

アクセス


TEL/FAX  03-5684-3890    

問い合わせはこちらから